1999年12月15日発行の『「セックス+ワーク」報告集』
(編集・発行/「セックスワークの非犯罪化を要求するグループUNIDOS」)に
掲載された佐藤悟志の個人アピール。「UNIDOS」全体の意志を表すものではない。



「セックスワークの非犯罪化」を勝ち取るためにも、

「性暴力の処罰化・犯罪化」を断固として推進しよう。


佐藤悟志(さとう・さとし)



 我々UNIDOSは、「セックスワークの非犯罪化を要求する」というスローガンを掲げて活動しているグループである。しかし、この「セックスワークを非犯罪化する」というテーマと、「性暴力を犯罪化する、処罰する」という課題は、原理的には同義の話である。なぜなら「自分のしたい相手としたい条件でしたいことをする」という「性的自己決定権」の確立は、同時に「したくない相手としたくない時にしたくない行為をしない権利」の確立、ということでもあるからだ。どちらか一方の権利が侵害されている時に、片方だけが成立しているということはあり得ない。
 だがしかし、ことは論理的なレベルにとどまらない。「性暴力がきちんと犯罪化されているかどうか」は、実は「セックスワークの非犯罪化」の実現を左右する極めて重要な条件であり、政治的要素なのである。

 例えば「青年法律家協会かながわ」という団体のホームページを見てみよう。そこには「特別寄稿文」として、三木恵美子という弁護士の「強姦する側の論理 強姦される側の論理」という文章が掲載されている (http://home2.highway.ne.jp/h-taka/kikoubun/goukan.html)。それは、自分が強姦されかかった時の体験を開陳した上で「買春と強姦の間には溝はない」という結論で締めくくる文章だ。
 もちろんこの「結論」は、「論理」とは無関係な感情の吐露でしかない。しかも自分を襲った加害者に対する怒りを加害者当人ではなく買春客一般にぶつけるという、きわめて八つ当たり的かつ差別的な文章である。買春客の「承諾があったから良いではないかという開き直り」に対して、「金を払うから労務を提供するという承諾に過ぎず、売春者が、買春者との性交自体を好んでいたわけではない」、だから買春と強姦の間に溝はないのだ、というのが三木氏の「論理」のすべてなのだが、その程度の算数を振りかざす三木弁護士が、自分の欲望を満たすために「労務を提供」させている例えば新聞配達員やゴミ回収員やタクシー運転手に対して、「金を払うから労務を提供するという承諾」以上のものを確認しているとは明記されていない。もしも彼らが、運転や新聞配達やゴミ回収「自体を好んでいたわけではない」としたら、結局は三木氏の日常生活と「買春や強姦の間」にも「溝はない」ことになるはずだ(三木氏の「論理」に従うならば、だが)。そして、彼らの仕事とセックスワーカーの仕事の間の「溝」が、本質的には性的な労働かそうでないかという違いにしか存在しない以上、三木氏の言動は、本人の意図がどうであろうと結局は性的なものを特別視し「ケガレ」として社会から排除・隠蔽せんとする、家父長制的性道徳の防衛=ただの性差別の再生産にしか帰結しない。
 しかし、このように三木氏の主張の稚拙さを指摘したところで、三木氏による自説の撤回は期待し難い。それは佐藤の人徳の無さもあるだろうが、三木氏の主張の基盤となっている動機や怒りそれ自体が、ごくごく正当なものであることにも起因するだろう。

 たとえて言えばこういうことである。江戸幕府の圧政に苦しむ農民が一揆を起こしてその首謀者や家族が処刑されるとき、農民たちは往々にして、死刑執行人を務める被差別部落の住民に対して、怒りをつのらせて石を投げつけたり火を着けたりした。もちろんそれを期待しているが故に幕府は被差別部落住民に死刑執行人をさせるのだから、それを恨んで被差別部落を襲撃する農民たちの行為は、何の解決にもならない無用な対立を引き起こし、以て幕府対人民という本質的な対立を隠蔽して江戸幕府の圧政を容易にする、全く誤った行為である。
 だがしかし、そもそも「幕府」による圧政が敷かれ続け、人々の憤懣が行き場をなくして蓄積し、それを発生源として理不尽な差別が生み出されている時に、その差別を糾弾するだけでは実践的には不充分である。無論、農民による襲撃に対する被差別部落住民側からの反撃が全く正当かつ当然であるように、セックスワーカーに対する差別攻撃は断固として排除されなければならないが、実際的・現実的な勝利を政治的に勝ち取るためには、そういった差別を支える人々の怒りのエネルギーを、差別を作り出している根本的な構造の解体、体制の打倒へと向かわせる必要がある。部落差別の法的な解消が、江戸幕府の打倒などの政治的進展を必要としたように、「セックスワークの非犯罪化」もまた、売春者差別を生み出す根本原因である家父長制的性道徳、そしてその基盤である家父長制支配に対する闘いへと人々の意識を向かわせることなしに、その実現を勝ち取ることは出来ないだろう。
 いわゆる「児童買春禁止法案」の成立過程でも、この法案を支える大きな原動力の一つに、非道な児童虐待や性暴力に対する人々の怒りや憤りがあったことは間違いない。問題はそういった人々の怒りが、結局は単なる援助交際や二次元世界での架空の性暴力へと向かわされていることにある。人々の怒りをねじ曲げて性風俗産業に対する差別攻撃へと向かわせることで性差別や性暴力の蔓延する社会を維持し防衛せんとする家父長制支配勢力の謀略に、人々はまんまと乗せられてしまっているのである。
 だからこそ、その謀略を暴き、人々の怒りを正しい攻撃対象へと向かわせることは、「セックスワークの非犯罪化」を実現する上からも、是非とも実現しなければならない政治課題なのである。
 それでは「正しい攻撃対象」とは一体何か。
 例えばそれは、いわゆる「江東事件」のような、女の人権に敵対する露骨であからさまな性犯罪攻撃と、それを理解し容認する、性暴力肯定判決のことである。


「江東事件」 凶悪な性暴力犯罪を追認した東京地裁


 「オイ、オレを覚えているか」。1997年4月18日、東京都江東区の団地のエレベータの中で、住民のOL(44)は待ち伏せしていた男(55)にこう言って脅された後、胸などを数回包丁で刺されて殺された。
 午後9時過ぎ頃、彼女の姿を見つけるや、待ち伏せていた男は同じエレベータに滑り込んだ。「7年前の事件のことを覚えているか?」。「7年前の事件」、それは、この男がこの女性を暴行し、それをネタに恐喝しようとした事件のことだ。強姦されたことをバラされたくなかったらカネを出せ、と脅したわけである。
 OLは泣き寝入りしなかった。古風な家庭に育ち、親孝行で仕事熱心でもあったが、何より引くわけにいかなかったのは、彼女が勤務する企業の中で、女性の地位改善運動に参加しているという立場があったのかもしれない。
 「セカンド・レイプ」という言葉がある。レイプされた女性が訴え出ると、裁判の過程で忌まわしい事件を掘り起こされ、二重の苦しみにあわされるという意味だ。
 その苦しみを押して彼女は被害届を出した。その立派な行為が、結果的に彼女の命を奪うことになった。いったい、証言者の安全が確保できないなら、身を危険にさらして訴え出る人がいるだろうか? その上、逆恨みの理不尽さが逆に判決で持田被告を救うことになる。」

(週刊SPA! 1999年6月16日号32頁 
「神足裕司のニュースコラム」より)

 「逆恨みの理不尽さ」が「被告を救った」とはどういう意味か。それはつまり、今年の5月27日の東京地裁での判決公判で、検察側の死刑求刑が認められず、無期懲役の判決が下されたことを指す。無期懲役といっても、早ければ15年ほどで仮釈放が得られるのが刑務所行政の実態である。要するに、おおよそ一人の女の人格と人権、人生その他諸々を最大限に踏みにじり尽くした犯罪者に、東京地方裁判所は再び同様の犯罪を楽しむチャンスを与えてやったのである。

 朝日新聞(1999年5月27日夕刊)の記事によれば裁判長の山室恵は、「今回の被害者は一人で、動機は金目当てではなく個人的恨みだった。計画性はあるが周到とはいえず、法廷での謝罪の言葉も口先だけと断定できない」と述べ、「無期懲役が相当」と結論づけたそうだ。死刑判決を下す責任を放棄し逃亡した山室の、こうした言い逃れを子細に検討するならば、この判決の徹底した性差別性、女を恫喝する「セカンドレイプ」としての本質は明らかだ。

 第一に、「動機がカネ目当てではなく個人的恨みだった」ことが減刑の理由になると山室は言うが、私の理解によれば、通常の裁判で「個人的な恨み」が減刑理由になるのは、例えば「学校で苛められ続けていたので刺した」とか「子どもの頃から性的虐待を受けていた」といった、つまり「殺すのは悪いことだが殺した側の言い分にも一理あり、殺された側にも一定の非や責任が存在する」から、その部分の公平・公正を期するために情状を酌量する、ということであるはずだ。
 ということはつまりこの判決は、「女が告訴したせいで刑務所暮らしをさせられた」という加害者の逆恨みに一定の正当性を認めた上で、強姦されさらに恐喝されて被害届を出した女性の選択に、殺された責任を分担させようとする代物なのである。全国の性犯罪者やストーカーがこの判決に励まされ、勇気づけられたことは疑うべくもない。何しろ彼らの動機はおしなべてカネではなく、「オンナが自分に股を開かない」という「個人的な恨み」なのだから。そしてそれが、いざというときに減刑を保証してくれる強力な味方だと、裁判所がお墨付きを与えてくれたのだから。

 第二に山室は、「今回の被害者は一人」だから死刑には相当しないと抜かしたそうである。二人しか殺していない犯罪者を死刑にするなと「朝まで生テレビ」で力説した死刑廃止運動の指導者、菊田幸一明大教授を思い出させる判決理由だが、もちろんこれは、犯罪被害者の生命や人権よりも強姦殺人者のそれの方を重んじる、性差別イデオロギーの開陳以外ではない。
 一体全体この裁判官は、何人の女の股と生命が犯されたなら、この男の生命に見合うと判断するのだろうか。二人か?。三人か?。それともそれ以上か?。被害者の女性の人権と、人格と、そしてこれからの人生の可能性の全てとが、ウス汚い強姦魔の、それもせいぜい人生の四割程度の刑務所暮らしと等価であるとは、何を根拠に、どのような価値観で判断したのだろうか。いや、どのような価値観からであろうと、自覚があろうとなかろうと、それが、まさしく犯罪者の立場を擁護する、「殺した者勝ち」「強姦した者勝ち」の社会を維持し防衛し再生産する効果を発揮する、記念碑的な政治宣言であることにかわりはない。
 付け加えておこう。
 裁判を通して怒りをあらわにし、弁護士に言われて発した被告の口先だけの言葉に対して「それで謝ってるつもりか!」と怒声を浴びせて裁判長に退廷を警告された被害者の遺族は、しかし現在は、「まだ気持ちの整理ができず、仕事にもやっとの思いで出ている状態」なのだそうである。(西日本新聞の特集記事「犯罪被害者の人権を考える−家族それから」第8回より) (http://www.nishinippon.co.jp/media/news/9803/kazoku/page8/page8.html)
 つまりは、半分死んでいるということだ。もちろん、自らの愛する人、大切な家族を、理不尽に傷つけられ、弄ばれて、最後にはその人を必死で支えてきた努力と思いやりを、嘲笑と共に切り刻まれたのである。人生や社会や人間そのものに対して、苦痛や絶望、虚しさしか感じられなくなっていても何もおかしくない。
 要するに、殺されたのは一人だけではないということだ。そして裁判所は、この魂の殺人を考慮に入れず、犯人を極刑にという最後の願いすら聞き入れなかった。否それどころか遺族に対して、その原因となった凶悪犯罪者と共に、同じ空の下で同じ空気を吸って残りの人生を生きていかなければならないという、無期懲役同様の刑罰を科したのである。今、被害者の遺族は、「悲しみはあまりにも大きく、それを乗り越えるにはまだまだ長い年月が必要です。それまでは、ただそっとしておいてほしいという気持ちです」と、弁護士代筆の手紙で訴える(同・西日本新聞)。
 これが「セカンドレイプ」「セカンド殺人」でなくて、一体何であろうか。被害者のOLを殺したのは持田孝という男だが、今後、被害者の遺族がこのような世界の理不尽さに耐えきれずに滅びてしまうとしたら、それは持田と東京地裁の共謀によるリンチ殺人である。山室裁判長には共犯者として、「セカンドレイピスト」「セカンドマーダラー」の汚名と刻印を、一生涯に渡って背負い込んでもらわなければならないだろう。

 第三に山室は、「法廷での謝罪の言葉も口先だけと断定できない」と述べたそうである。被害者遺族すら受け入れない無意味な命乞いに、山室は価値を見いだしたのである。女の人生も人権も人格も、想像できないほどの恐怖も、苦痛も、憎悪も、絶望も、大の男が頭を下げたんだから水に流しましょうよ、というわけである。
 だが考えてもみよ。2か月前に刑務所を出たばかりで、しかも出所後2か月で団地の郵便受けから被害者の部屋を突き止め、凶器の刃渡り20センチの包丁とペット用のロープを予め購入して犯行を準備していた加害者の男、つまりは前回の強姦と恐喝と刑務所入りに何の反省もしなかった持田孝が、どうして今回だけは反省すると思うのか。仮に反省していたとしても何の意味も価値もないし、反省していなければ再び取り返しのつかない事態が起こる。要するに山室の行いは、他人の口や股ぐらに銃を突っ込んでロシアン・ルーレットを楽しんでいるようなものである。自分の手が汚れるわけでもないし自分が殺されるわけでもない、その上「生命尊重」などという「美名」すら口にできる。それは確かに神様気分の味わえる贅沢なお楽しみに違いない。売春防止法制定の時と同じく、美辞麗句を飾るためのコストを払わされるのはいつでも社会的弱者だ。
 だがしかし、そんな快楽に供されるために人々は生きているわけではない。ゲームを楽しみたいのならば、裁判官は無関係の一般市民ではなく自分自身が、出所した前科者の最初の被害者となる覚悟と体制を作り上げた上で、犯罪者の命乞いに耳を貸すべきだろう。

 第四に、検察側が「今回のような事件が続発すれば犯罪の被害者は報復を恐れ、届け出をためらうようになる」として極刑を求めたことについて、山室は、「被害者保護の問題は、立法や行政上の措置にゆだねるのが適切で、今回の量刑で考慮するには限界がある」と述べたそうだ(同・1999年5月27日付朝日新聞夕刊)。
 要するに、女の生命だの被害者の人権だのといったサマツなことは政治家や役人が何とかすればいいことで、裁判官様の知ったことじゃあない、というわけだ。「量刑で考慮するには限界がある」などと、「被害者保護」よりも自分たちが勝手に作ったルールの方を優先する姿勢には、犯罪被害者の立場を考える姿勢などカケラも存在しない。単なる法曹官僚ないしはただの法律オタクでしかない人間に、司法権力を行使する資格などない。

 まとめよう。これは「江東差別裁判」とでも呼ぶべきフザケ切った判決の問題である。強姦してやったのに嬉しがってひれ伏さないような生意気な女を殺して黙らせるのは、せいぜい20年ほど刑務所にいれば許される程度の犯罪だという、強姦被害者の殺害を奨励するキャンペーンである。逆に性暴力の被害者に対しては、誰にも聞こえない密室の中で拷問された末に殺されるのが恐ろしければ、黙って性交奴隷になるのが身のためだと思い知らせる、脅迫と恫喝の宣告である。そして全国のストーカー犯罪者とその予備軍に対して、カネ目当てでないから君らの罪は軽いと、励まし、勇気づける政治的判決である。
 そして、こうした理不尽が繰り返されるたびに人々の怒りと憤懣は蓄積し、それを振り向けられた売春者が八つ当たられ、罵られ、捕まえられ、ナイフで脅され、首を絞められて殺され、それが容認され、それを子どもが見て覚え、大人になってから又は少年のうちに女を強姦し、恐喝し、刑務所に行かされたので仕返しに殺し、人々の怒りが蓄積し、それを振り向けられた売春者が八つ当たられ、以下繰り返し。

 我々はこうした悪循環を断ち切らなければならない。そのためには、売春婦を殺すなと言うだけでは不充分である。売春者であろうとなかろうと、好き勝手に殺させないことが必要なのである。


実現されるべき具体的な方策。


 そこで、「性的自己決定」のそもそもの基盤となる生命・身体の安全を確保するための具体的な方策、現在の技術水準で用いることが可能な最大限の「性暴力の断固たる犯罪化」政策について、佐藤が早急に必要と考えるものを以下に列挙する。もちろんいずれも、現在の技術水準や現行制度の適切な運用で、実行可能なものばかりである。

 第一に、強姦犯罪を告訴できる期間の現行半年という制限を、少なくとも一年、できれば二年にまで延長する。

( 佐藤注記 2000年5月12日の国会で、刑事訴訟法の改正及び被害者保護法が成立し、同年6月8日以降の事件に関しては、「告訴期間6か月」という制約が撤廃された。 2001.02.07 )

 第二に、刑法強姦罪の構成要件に本質的な変更を迫る。「暴行または脅迫を用いて一三歳以上の女子を姦淫した者」だけではなく、男子も含めて、法律的に通用する合意を相手から得ない性行為(性交類似行為を含む)をすべて刑法上の強姦とする(ただし、親告罪を維持する)。そして「二年以上の有期懲役」という現行の下限を、最低五年に延長する。
 第三に、法律的に通用する合意を相手から得ていない性器・陰部以外への身体接触を、準強姦(強姦未遂ではなく)として処罰する。現行「強制わいせつ」をそれに含め、処罰の上限を懲役十年以上に延長する。
 第四に、出所後に被害者の生活圏に近づくことを禁止する命令を、すべての前歴者に対して決定・通告し、違反を犯罪として処罰する。
 第五に、強姦後の被害者の殺害を抑止するために、強姦殺人に対して物理的に最大限可能な刑罰、つまり死刑を完全に実施する。死刑制度を犯罪者による殺人と同一視する偏見があるが、米国映画「デッドマン・ウォーキング」でも明らかにされているように、犯罪者の殺人と民主国家による処刑との間には、その人道性において天と地ほどの開きがある。例えば「池袋事件」における殺人が、正当防衛として免罪されるべきであったのと同様に、強姦殺人犯に対する死刑適用は、女性や社会に対する正当防衛行為として肯定されるべきであり、なおかつ励行されるべきである。
 第六に、性犯罪の抑止と発生後の速やかな解決のために、犯罪前歴者全員からDNAデータを採集し、全国規模で照会可能な捜査用データベースを構築する。
 第七に、日本に在住する20歳以上の男性全員に対して、指紋・掌紋・声紋の登録を義務化し、全国規模で照会可能な捜査用データベースを構築する。
 第八に、米国のいわゆる「メーガン法」を参考に、性暴力犯罪前歴者の釈放後の所在や生活についての、インターネットなどを利用した情報公開制度を制定し、前歴者の行状を社会全体で監視・管理する体制を構築する。
 第九に、現在米国で仮釈放者に対して行われている「発信足輪」の装着を参考にした、電波発信器装着の義務づけと衛星監視システムの組み合わせによる、性暴力犯罪前歴者全員の24時間所在把握を実現する。
 第十に、本人の合意のない録音や撮影を「盗聴撮」と規定し、その「販売」「販売目的での所持」そして「不特定多数に対する公開」を犯罪として禁止し処罰する、「盗聴撮規制法」を制定する。
 第十一に、女性や子どもに対する暴力や強姦をエンターテイメントとして提供する表現物に対して、これを禁止する「性暴力表現規制法」を制定する。この規制は当面実写映像に限定されるが、制作者や出演者の合意の有無に関わらず行われるべきである。

 提案は今のところ以上だが、もちろんこれは佐藤の私案でありなおかつ当面の試案である。読者諸君のさらなる豊富化と、独創性に富んだ強力な提起を期待する。


1999年08月31日   佐藤悟志

以下「追記」へ続く




後記1

 2000年02月28日、東京高裁(仁田陸郎裁判長)は一審の無期懲役判決を破棄し、持田孝に逆転死刑判決を叩きつけた。「動機は理不尽の極みで全く酌量の余地はなく、一審の判断は妥当でない。被害の申告を躊躇させる悪影響を与えかねない」と、犯罪被害者への仕返しに厳しい姿勢を示し、求刑通り死刑を言い渡したのである。
 「被害者の訴えで逮捕されたことを深く恨んだ末の極めて理不尽で筋違いの犯行。被害者には何の落ち度もなく殺害を目的とした動機は利欲的な殺人と変わらないぐらい悪質」と指摘し、「殺害の被害者が一人でも極刑選択がやむを得ない場合がある」と改めて言い切った裁判官は、犯罪的な一審判決を文字通り切って捨て、全国の犯罪者どもに死の警告を与える給料分の仕事をした。
 しかし持田側は破廉恥にも控訴し、死刑判決は確定しなかった。強姦殺人鬼を擁護するセカンドレイプ弁論と、死刑廃止を呼号する間接テロリストどものセカンド殺人運動を踏み潰す断固たる確定死刑判決を、我々は全力で闘い取らなければならない。



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