「だめ連」機関紙『にんげんかいほう(27年の孤独)』第6号
(1995.08.30発行)に掲載された佐藤悟志の文章




「売春の自由」

(上野千鶴子『「セックスというお仕事」の困惑』批判)



佐藤悟志(さとう・さとし)



 1994年6月22日付朝日新聞(夕刊)の上野千鶴子氏の文章は、上野先生の著作を手掛かりに勉強を進めてきた私を失望させる極めて反動的な見解の表明であった。この論文の発表一周年を記念して(いえ、単なる怠惰のせいです。申し訳ない)本誌上をお借りして、この文章の混乱と犯罪性を暴き出すことにしたい。
 思えば先生の大作『家父長制と資本制』はことあるごとの「留置場の友」として、私にマルクス主義フェミニズムの初級講義を施してくれた。今日私が「売春の自由党」事務局長としてあるのも、上野先生の学問と、理路整然にして旗幟鮮明なる先生の著作のお陰である。
 その学恩に報いるためにも、今回の文章の問題点を解明し、買売春をいかに捉えるべきかに関する私の見解を表明したい。それは同時に、売春防止法の即時無条件の撤廃、売春労働者の労働三権の確認、そして管理売春の合法化という、「売春の自由党」の諸要求の正当性を論証することにもなるだろう。


1.性の侵害はイコール人格の侵害か?


 「性労働者の人権侵害という考え方に人々がとまどうのは、性労働じたいが人権侵害の上に成り立っているのではないか、という疑いからである」と上野先生は記す。人々のこうした「疑い」に対し、先生がどう回答するのかは明瞭ではない。「性の侵害は人格の侵害と同じであるという考え」を「ピューリタニズム」と評し、「廃娼運動や売防法の制定にたずさわった有識女性たちを売春婦差別に導いた」などと書いているところを見ると、「性の侵害は人格の侵害と同じではない」とでも言いたそうだ。
 しかし別のところでは「売春とは金を払ってする強姦である」などという「喝破」を引用して喜んでいる。売春が本当に「金を払ってする強姦」ならば、「強姦なんてたいした人格の侵害ではない」とでも考えないかぎり、「性の侵害は人格の侵害ではない」という先ほどの図式は成り立たない。上野先生はこの問題に回答することができず、混乱しているように見える。
 だが冷静に考えてみるならば、明確な回答を出そうとするほうがそもそも無理だということがわかる。なにしろ問題は「人格」に係わるのだから。

 一般的に言えば、セックスの好きな人間にとってセックスの誘いは好意の表明と感じられるが、嫌いな人間にとっては嫌がらせと映るだろう。同様に、性を自分の人格にとって重要だと考える人間にとっては性の侵害は自分の存在そのものの否定と感じられるだろうが、性が自分の人格にたいして重要な位置を占めていないと考えている者にとっては、性の侵害はあえて甘受したり代償と引き換えに提供しても構わない程度の優先順位の低い代物と映る。こうした価値観の違いを無視して断定的な図式を設定しようとするから上野論文は混乱をきたすのである。
 「性の侵害が人格の侵害とイコールであるかどうか」は問題ではない。それは各人が自分の判断で決定すればいいことだ。むしろ問題とされるべきなのは「性の侵害が人格の侵害と(ノット)イコールであるという自分たちの価値観を、行政権力その他の強力を用いて他人に強制すること」の是非なのである。
 たとえば『素顔のままで』(フジテレビ)の一場面。カンナちゃんはカズヤ君の初演出舞台を御破産にしないために「売春」をする。(本人いわく「スポンサーのジジイと寝たんだよ!」)
 「私とベットで踊らないか」などという、ヘソが茶を沸かすようなセリフを口走る社長と彼女がセックスをしたのは、別に酔っ払っていたからでも寝惚けていたからでもない。自分が本当に大切なもの、守りたいもの、手に入れたいものと引き比べて、交換してもいいと判断したからである。その彼女の決断を一体誰が、何の資格があって、非難したり嘲笑したりできるだろうか。そうした非難や中傷を発生させるような思想や宗教や制度や運動こそが、非難されるべきなのではないだろうか。
 付け加えておくならば「売春とは金を払ってする強姦である」なる「喝破」と、「売春婦は性的自由・身体の自由をすべて放棄しているのだから、何をされてもこれらの自由に対する急迫不正の侵害などありえないと論じた」(角田由紀子著『性の法律学』有斐閣選書、173頁)「池袋切り裂きジャック退治事件」における検察官の論告は、表裏一体を為しているように私には見えるがどうか。


2.売春労働は人権侵害の上にあるか?


 さてこれで、「性の侵害が人権侵害ではない人」と「場合」の問題は片づいたと思う。だが「性の侵害が人権侵害である人」の場合はどう問題を処理するべきだろうか。前記カンナちゃんの例も、全く抵抗がなくて交換したわけではなく、限られた条件の中でどちらかを選択せざるを得ないような状態に追い込まれて、やむを得ず片方を捨てて片方をとったのである。そして上野先生が記すように、売春労働は「いまだに自由売春の名に値する労働は微々たるものにすぎず、大半は強制をともなう管理売春」である。こうした実態を踏まえてもなお、「性労働が人権侵害の上に成り立っているのではないか」という人々の疑いは否定されるべきであろうか。

 結論から言うならば「すべての性労働は人権侵害の上に成り立っている」。これは否定のしようもなく、そして否定の必要もない単なる事実である。なぜならば「すべての労働は人権侵害の上に成り立っている」からである。

 上野先生は記す。「労働者はじぶんという労働力をまるごと売っているわけではない。したがって、合意によらない契約外の労働を拒否する権利がある」。だがしかし、この権利は労働による人権侵害をカケラも否定するものではなく、むしろ労働の非人権性を雄弁に物語るものである。なんとなれば労働者は「合意による契約内の労働」を拒否できないからである。
 人間には生まれながらにして基本的人権が備わっていると言い伝えられる。日本国憲法その他の律令は、色とりどりの自由を並べ立て、我々の怠け心を誘って止まない。
 だが「労働契約」は、それらの自由を押し並べて停止し、凍結した上に成り立っている。私たちは契約した時間中、契約した場所から移動してはならず、決められた作業を継続しなければならない。集会に行ってもならないし、隠れて自分の原稿を書いていてもならない。摘発されれば懲戒や解雇が待っている。仕事を失えば米も買えない。家賃も払えない。損害賠償を要求されたらさらに自分の時間を失う。だから我々は「移動の自由」も「言論・表現の自由」も行使することなく、一日の時間の大部分を仕事に費やさなければならない。
 「居住の自由」があっても転勤しないわけにはいかない。「職業選択の自由」があっても「選択しない自由」はない。理論上では死ぬまで100%満喫することができるはず(金があれば)の基本的人権を、ほとんど切り売りして手放す以外に、一般平民の生活していく道はないのだ。共産主義革命(爆笑)でも起こらないかぎり、こうした状況が改善されることはあり得ない。つまり我々は、売春者であろうとなかろうと、労働者であるかぎり人権侵害を免れることはできないのである。

 ではどうして「すべての労働が人権侵害である」にもかかわらず、売春労働における人権侵害だけが殊更に問題とされるのか。自らの意志に添わないことをやらされたり、苦痛や不愉快を甘受したり、身体の酷使を要求されたりすることが、およそ労働と名のつくものに共通の現象であるにも係わらず、なぜ売春労働に特有のものであるかのように言い立てられるのだろうか。

 もちろんそれは、新たな「非人部落」を作り出すためである。

 江戸時代。幕府支配の重圧に喘ぐ百姓は、自らの苦痛を紛らわすために、より多くの重圧にのしかかられる穢多・非人の惨状を眺めて慰安にした。同様に今日の労働者は、自らに降りかかる労働の苦痛をやわらげるため、ことさらに売春労働者の悲惨と困難を確認しては、精神安定剤がわりに服用しているのである。まさしく「他人の不幸は蜜の味」である。
 そして江戸期の部落差別と同様に、人々の差別感情を巧みに利用する勢力が、今の日本にも存在する。たとえば主婦の無償家事労働をフルに活用して亭主を二四時間働かせているような企業・資本家どもがこうした差別を利用・拡大していることは、上野先生が御自身で解明してきたことだ。
 だが問題は、資本家や、人間の再生産に係わる事柄を一貫して管理することによって人間そのものを支配せんと企むヤソ教会の営業どものみならず、先生を初めとするフェミ運動家の類いも同様に、こうした差別に加担しているということにある。


3.管理売春は存在するか?


 たとえば上野先生はこう記す。「高い代価と引き換えでなければ、自分の性的身体を他人の意のままの使用に供する、ストレスとリスクの大きい「セックスというお仕事」に、すすんで就く男女はいるだろうか」。
 こうした書き方、売春労働を他の労働と違う、何か特殊で特別な行為であるかのように考える思想・イデオロギーこそが、「娼婦と非娼婦との分断」を強化するのである。

 カンボジアの人外魔境で原住民の襲撃に怯えながら地面に這いつくばって地雷を掘る仕事は「リスクとストレスの小さい仕事」だろうか。発狂者まで出たと噂されるペルシャ湾での機雷すくいはどうか。皇宮警察や成田空港警備隊に勤務する警察官は「リスクやストレスが小さい仕事」をしているだろうか。夜勤や準夜勤が連続し、エイズや激症肝炎に感染する恐れもある看護婦の仕事は「リスクもストレスも小さい仕事」だろうか。危険物を積んで走るトラックや、正常かどうかも分からない客を乗せるタクシーの運転手はどうだろうか。プレス機で手の指を短くするのは、「リスク」の内には入らないだろうか。夏の炎天下を営業に飛び込んで歩くのは「ストレスの小さい仕事」だろうか。いつ潰れるかも分からない中小企業に勤務し続ける社員の「リスク」は大きくないだろうか。新工場稼動準備で休みなしに激務を続けて過労死した係長の「ストレス」は、刻々と「リスク」を臨界点まで押し上げていたのではなかったか。

 おおよそ人類が発生して以来、この地球上に「リスクもストレスもない仕事」が存在したタメシなどはない。売春労働と非売春労働を区別する合理的な根拠が示されたこともない。労働にはただ、比較的楽な労働と、比較的キツイ労働があるだけであり、その賃金や能力・必要に応じて、それぞれが選択せざるを得ないだけなのである。こうした労働の現実を確認するならば我々は、上野千鶴子流の「自由売春」と「管理売春」の区別が、無意味であるどころか「穢多部落」の拡大再生産でしかないことに気付くだろう。
 そもそも労働には、「自由労働」も「管理労働」もない。ただ労働の中に、労働者の自由になる部分と、管理者の支配する部分が混在しているだけである。職種・形態、労使の力関係、そして歴史的・地域的な制約のせいで、管理の強大な職場も発生するし、比較的自由な職場も発生する。さらには職場に対する個人の適性の違いもある。旧帝国陸軍のような厳しい職場でも、ゴマスリと要領の良さで上官に取り入って快適に暮らす者もいれば某マンガ出版社のようなお気楽な職場で、体が臭いという理由でクビになる者もいる。毎日のお遊びがそのまま多額の収入になる糸井重里のような羨ましい職場?の奴もいれば、血と肉に飢えた殺人鬼が何万人もたむろする難民キャンプに、「食料提供」に行かされる自衛隊員のような悲惨な境遇にいる者もいる。そしてその労働が苦痛と差別と危険に満ち溢れていたとしても、大多数の労働者は職場を変更することができない。嫌でも何でもそこで働き続けるしかないのだ。売春労働もまた同じである。
 デラコステ&アレキサンダーの労作「セックス・ワーク」(日本語版は現代書館から)には、売春労働にもさまざまな条件の、さまざまな職場が存在することが記されている。管理と搾取の厳しい職場もあれば、自らの創意工夫や芸術的なセンスを活かすことのできる職場もある。そして精一杯金を稼いで自らの目的を達成する者がいて、労働に押し潰されて身を滅ぼす者がいる。そうした人々のそれぞれの運命に対して、他人が「してあげられる」ことがどれほどあるだろうか。
 自分の生活を支えるだけでほとんど手一杯の我々が、それでも何かしら他人の生活の心配をしようとしてもできるのは、その人がその職場で、少しでも楽しく働けるように、せいぜい苦痛や忍耐が少なくあるように、自分のできる範囲で気を配るぐらいであろう。電話の受け答えを丁寧にするとか、普段から小銭をたくさん用意しておくとか、道で配っているティッシュをなるべくもらうとか。
 そうした配慮の対象から風俗労働や売春産業の職場を除外することに、合理的な理由は一つもない。ましてや売春労働者が宣伝や勧誘を行なったという理由で刑務所や収容所に監禁し、ただ同然の懲役労働で搾取と抑圧を加え、なおかつ前科者の烙印を押し付けるなどという「性的戒厳令」「性交治安維持法体制」を容認しなければならない理由はどこにもないのだ。
 すべての「管理労働」を禁止することなしに「管理売春」のみを禁圧しようとする企ては、売春者の職場を破壊しようとする差別的な陰謀に過ぎない。そうした企みに加担する者は誰であろうとも「性差別者」の烙印を覚悟せねばならない。上野先生とても例外ではない。


4.なぜ売春が労働ではないのか!


 昭和27年に新吉原女子保健組合の編集で出版された『明るい谷間』は、1990年に関根弘氏の手で『赤線従業婦の手記』と改題されて復刻された。その中で関根氏は「労働者となんらかわるところのない意識」「まるで熟練工が腕を自慢するような」「口調と態度」を、この『明るい谷間』、そして新吉原女子保健組合の機関紙である『婦人新風』に見出したと語っている。「その行為は、就業規則を守り、安全第一を心がけ、賃金を得る労働者の意識と少しも違わなかった。差別的偏見が彼女達のなかの労働者意識を見る目を妨げてきたのである」と自省と共に率直に記しているのである。
 たとえ人権侵害であれ疎外労働であれ、大多数の人間はその労働に人生の大半の時間を消費する。だからその労働で社会的な評価を受けることができたならば、たとえその仕事がどんなに苦痛で困難であったとしても、人はそれを充実感や満足感にかえて、自らの人生が有意義であった証(あかし)とすることができる。
 『明るい谷間』や『婦人新風』を真摯に学習すれば、売春者たちもまた苦痛や困難を耐え忍んで懸命に勤労したことがわかる。技術情報を交換し、防犯の心得を確認し、励ましあい慰めあいながら日々の労働を続けていたのである。その営みを「犯罪」呼ばわりすることは、いかにも、売春者の人生そのものを犯罪規定すること以外ではない。
 山崎朋子の『サンダカン八番娼館』でも、外国帰りの「からゆきさん」が日本で疎外される様子が描かれている。自分の仕送りで建てたにもかかわらず、家の中に山川サキの居場所がない。外国に居るときにはどんなに恋い焦がれたか知れない故郷にとって、彼女達の存在は恥ずかしく世間体の悪いものだったのだ。売春が直接にもたらす苦痛や困難のみならず、いや、それ以上に、売春者に対する偏見、売春労働に対する社会的な評価の低さが「からゆきさん」たちを圧迫し、故郷に居たたまれなくしたのである。
 今日でも、売春者とその労働に対する差別と偏見は根強い。「ゴミの回収」や「新聞配達」にすら「立派な仕事である」「敬意を払う」と一応言う人々が、売春者の仕事には公然たる非難を浴びせ、「労働ではない」「労働として扱うことはできない」と攻撃する。危険性や労働条件の悪さでは同様のはずだ。なのに片方は評価・肯定され、片方は否定と哀れみと体罰の対象になる。これを差別と言わずして、いったい何を差別と言うのだろうか。

 たとえば『夏子の酒』(フジテレビ)の一場面。東京で女優を目指していて今は田舎に帰って佐伯酒造の事務員をしている冴子さんが、実はアダルトビデオに出ていたことがバレてしまう。女子高生や田舎の若造どもに嘲笑され、母親には小突き回される冴子さん。夏子の夢想を容易に突き放せる誇り高い彼女が、何ら言い返せず、殴り返すことすらできないのは何故か。差別と偏見の鎖で縛り上げられて、身動き取れなくさせられているからである。自信も能力も持ち合わせない「世間」の連中が、個人レベルでは太刀打ちできない彼女を屈服させ、ひざまずかせるために、「過去」だの「職業」だの「性道徳」だのと言った事柄を持ち出してきて、彼女の反撃を封じ込めたのである。
 この場合重要なことは、彼女が殴り返す力を物理的に所有していない、わけではないということである。反撃しようとすれば可能であるにもかかわらず、してはいけないかのように思い込まされていることが問題なのである。彼女にそうした思い込みを刷り込んだのは、例えばヤソであり、売春防止法であり、性道徳であり、「常識」であり、世間であり社会であり、男であり、そして「セックスビジネスの本当の主体は男である」などという言説を流布することによって、セックスビジネスに関わる女があたかも没主体的で、男の言いなりになりやすい女であるかのように宣伝した上野千鶴子でもある。

 売春者を苦しめるのは、単に暴力や搾取といった肉体的、物理的なものだけではない。社会的・イデオロギー的な抑圧と、それを根城にした公権力の弾圧をこそ、我々は解体しなければならない。
 だからこそ「セックスビジネスの本当の主体は男である」「強姦者や買春者はみな男である」と口走り、何もかもを「男」の責任にする上野千鶴子式免罪符の大安売りに対しても、容赦ない否定と非難を浴びせなければならない。単に「女である」ということだけでこの問題から免責されるというのは全くの誤りであり、欺瞞であり、言うならばウイメンズ・ナチズムである。
 今まで見てきた通り、売春者を差別し貶めようとする勢力は男女の別なく存在する。神近市子(婦人議員)や高橋喜久江(キリスト教矯風会)のように、売春者を差別し、抑圧することに喜びと生き甲斐を得てきた女たちもいる。売春防止法の制定、売春者の非合法化によって利益を得る者に、性別は関係ないのである。あえて違う点を上げるとすればそれは、さまざまな労働現場において直接その盾と対決しなければ生きていけない無産労働者階級人民(ちょっと笑い)、プロレタリアートの立場と、そうした現実から遊離したところで、好き勝手なことを言っていられる非労働者、ノン・プロレタリアートの立場の違いというところだろうか。


5.性労働は自由化すべきか?


 たとえば上野先生はこのように言われる。「性労働の自由化が現実になるのは」「性が人格から独立し、性的欲望が権力関係とむすびつくことをやめた」「遠い未来のことであろう」。
 果たして上野千鶴子は、性労働の自由化を実現したいと思っているのか。それとも実現したくないと思っているのか。

 もちろん我々とて楽観的な予測を立てているわけではない。が、たとえば『セックス・ワーク』では、それぞれのイデオロギー的な違いこそあれ、「WHISPER」、「COYOTE」、英米の売春婦協会などが口々に、売春者に対する処罰の廃止を要求していたはずだ。それを目の当たりにしていながら「自由化は遠い未来のことだ」などと呑気な未来予測を開陳して事足れりとするのは、売春者の闘いに対する無視ないしは無関心の表明以外ではない。もちろんこんな「霊言」「大予言」の類いを、我々は、少なくとも私は必要としていない。
 必要なのは「予言」でも「科学的な未来予測」でもない。「我々は必ず勝利する」「革命後の世界はこんなに素晴らしい」という、決済日未定のインチキ手形でもない。今現在の状況を変革しようとする意志である。不正義を糾さんとする怒りであり、一歩でも半歩でも前進を勝ち取らんとする、理想の社会への飢えと欲望なのである。

 「更生!! その言葉は、私はキライです。私は更生しなければならないような前科者ではありません。私は赤線で働いた。それが犯罪なのでしょうか。私が、死ぬほどの思いでこの所にとびこみ、毎日、いくらかのお金を得て自分も生活し、子供二人を養っているのに、私はスリや人殺しと同じように犯罪人として扱われ、更生させられなければならないのでしょうか。」

 売春防止法の施行を目前にひかえた、赤線労働者の必死の言葉である。

 だが1958年4月1日に処罰規定が施行され、売春防止法は全面実施となった。売春者の労苦はすべて犯罪として蔑まれ、労働に習熟した主体は恥ずべきもの卑しいものとして否定された。生活のために売春を止められないものには、更なる弾圧と嘲笑が浴びせられた。この過程と、そこにおいて日本社会党が果たした犯罪的な役回りについては、『女性史学』第1号の藤目ゆき論文、または青狼会ブックレット1「赤線従業員組合と売春防止法」を参照してほしい(注)。

 赤線にいた女性の中には、戦争中は慰安婦として苦労した者もいただろうし、占領軍用に無理矢理徴用されて強姦された者も居たそうだ。だが強姦者は兵士だけで終わらなかった。彼女たちは、「新有権者」の人気取りを狙う婦人議員どもや、矯風会を先頭とする廃娼運動家どもの自己満足のために、再び三度「慰安婦」にされ、「強輪姦」されたのである。「売春防止法」が作り出した、赤線よりもさらに劣悪な「従軍慰安所」の前で談笑する、神近市子、高橋喜久江、そして兼松左知子らの姿を、我々は絶対に忘れない。彼らが非合法化して踏み潰した赤線従業員組合の怨念を、今こそ現代に甦らせよう。売春防止法体制の転覆こそ正義であり、そのための闘いはジハード、まさしく聖戦である。

 反差別を語る全ての個人・団体を、「売春の自由党」はこの闘いに招待する。死をも投獄をも恐れず戦えとは言わない。ただ少し見方を変えていただけるならば幸いである。


1995年5月1日

佐藤悟志(「売春の自由党」初代事務局長)




注=現在では両者とも入手困難であるが、藤目ゆき論文は『性の歴史学』(藤目ゆき著、不二出版、1997年)の第11章に、「青狼会ブックレット1」の内容は現代思想誌『彼方』の第3号に、それぞれ収録されている。

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